北海道教育大学 芸術・スポーツビジネス専攻准教授 角 美弥子
2021年、「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界遺産として登録された。人と自然との共生を示し、当時の生活と精神文化を今に伝える貴重な遺産群である。
現在全17遺跡で構成され(加えて関連遺跡が2)、その名のとおり北海道と北東北に分布しているが、北海道側の遺跡は道央以南で、最北に位置するのはキウス周堤墓群、一方で東北側の最南に位置するのは岩手県北部の御所野遺跡であり、津軽海峡をはさみ、ブラキストン線を越える二つの地域をつなぐ縄文文化となっている。
縄文文化とアート、というと爆発するひとを思い出すが、縄文のデザインは、土器も土偶も、海外からも高い関心を集めている独特のものである。しかしながら、いわゆるあの派手な火焔土器は、縄
文時代の一時期(中期)のものであって、縄文時代の土器の全部が全部ああいった土器ではない。あくまでも時代区分が「縄文時代」なだけであって、「縄文時代」の土器でも縄文が入っていない土器もある。従って、縄文文化の何がアートかという話になったら、意匠もさることながらその暮らしぶりや考え方がアートと言えるのではないかと考える。
縄文時代は今よりも温暖な気候で縄文海進の恵みもあり、それこそ三内丸山遺跡に見る栗をはじめとした森の恵みも豊かであっただろうが、今の豊かさとはまた別もので、生きていくためには多くの困難が伴ったであろうことは想像に難くない。その中で、あの六本足の大型建物を建設し、土偶に意味を込め、漆の櫛を、縄文ポシェットを作っていったその発想がはからずしもクリエイティヴなアート活動に重なると言えるのではないだろうか。
2022年8月に二つの遺跡を訪問した。1つは青森空港からほど近い小牧野遺跡、もう一つは今から四半世紀前、1996年に発掘されて日本中の縄文観を覆した三内丸山遺跡である。
まずは小牧野遺跡を訪れた。遺跡保護センターは廃校を活用したもので、ジオラマや出土品が展示されている。ジオラマも巧緻で展示もわかりやすく、郷土資料館とは一線を画し初心者でもわかりやすいものとなっている。ミュージアムグッズも楽しい。遮光器土偶になり切れるペーパークラフトの遮光眼鏡もあるので気になる方は是非。
小牧野遺跡そのものは公共交通機関では若干行きにくい場所にある。小高い丘の上に位置し、眼下に青森平野が一望できる位置にある少し開けた場所で、特に広いというわけではない。1989年に環状列石が発掘され、現在、3周の環状列石が確認できる。この列石の並び方が複雑で、その意味は専門家に譲りたい。だいたいよくわからない遺跡は祭祀に使われたと言われるがここもその一つだろうか。現代の常識は縄文時代の非常識かもしれないので、目に見えるものを見て事実と想像をうまく区別する必要がある。
一方の三内丸山遺跡はいまや押しも押されもせぬ縄文、また東北を代表する遺跡である。野球場を作ろうと調査していたら見つかって「しまった」、しかも縄文時代では前例のない大型建物を有する大規模な集落であったから、発掘当時は大騒ぎだった。今回はその当時の発掘担当者であった現三内丸山遺跡センター長の岡田康博氏に縄文文化の説明を受けた(ここだけの話、当時「青森からすごい遺跡が出た」と聞いて胸躍らせた身にとっては、岡田さんは憧れのような方で、そのご本人からお話を聞けてひとりで盛り上がっていた)。
中でもアーティストと遺跡の関係については興味深い意見をいただいた。アーティストの遺跡へのアプローチには主に3タイプあって、1つは場の力や空間の視覚的迫力に触発されるタイプ(とはいえ縄文遺跡は大なり小なりどこでもある)、2つ目は形や模様を活かすタイプ(ただし当時の付け方とは異なる)、3つ目は自然と共生などを勝手に理解し、自然素材をやたらに活用するタイプ(でもそう簡単じゃない)とのことだった。いずれも否定するわけではないが、遺跡の一部または上澄みを切り取るのではなく、縄文という文化、遺跡、加えてそこに生きた人々、自然そのほかを俯瞰して自身の中に取り込んで表現するということは実は非常に難しいことだと理解した。他にも面白いお話を伺ったが、それはまた別途まとめることとしたい。
ところで、三内丸山遺跡が発掘されたときに、大々的な展覧会が開催された。その名も「縄文まほろば博」。「まほろば」とは「すぐれたよいところ」の意味のやまとことばであり、縄文に使っていいのかというのはさておき、このとき会場に縄文語を学ぶコンテンツがあった。
「アバ ナガ マポ アニ ノノ ト アヤ ト イネ ト イエ ト オト シブ イブム」
「わたしのなまえはマホです わたしには祖父と祖母と父と母と兄弟と姉妹がいます」
(シンセサイザーのアーティストである姫神が作曲した「神々の詩」で聞いたこともあるだろうが、この歌は展覧会より後に発表されている)
このときによく聞かれたのが「縄文語ってあるんですね」「どこに残ってたんですか」といったところだが、いやいやテープもICレコーダーもSPレコードも蝋管もない時代に音が残るわけがない。研究者が日本の古語やアジアの言葉を調査研究した結果このようなものではなかったか、というのを提示しただけなのだが、これこそが縄文語だと誤解されて非常に困った記憶がある。研究者は遺物や事実をもとに分析し、そこから推察して、こうではなかったか、という形で過去を明らかにしていくのである。真実はタイムマシンで出向かない限りわからないことを重々承知して古代のことには当たらなければならない。1983年の金鳥のCM「ちゃっぷいちゃっぷい どんとぽっちぃ」も、この仲間である。遺物に残されているものは真実であるが、それ以外はあくまでも現代人が組んだ論の上にあるということを忘れてはならない。
さて、今回、亀ヶ岡に行く予定だったが、折からの豪雨で断念せざるを得なかった。次回は是非木造の遮光器土偶駅舎を訪れたいものである(竣工当時は非難囂々だったとのことだが今や立派な観光スポットである)。
最後に。「縄文を研究している」からといって縄文全てに通ずる全能の研究者はなかなかいない。縄文の土器、石器、住居、そのほか諸々といった項目に加え、縄文前期、中期、後期、晩期などその対象は事細かに分かれるからである。縄文は奥深い。よって自分は「環状列石カッコイイ!」「土偶カワイイ!」くらいにおさめておきたいと思う次第である。
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